東文彦プロフィール

東 文彦
小説家

 東 文彦(あずま ふみひこ、1920年(大正9年)8月23日 - 1943年(昭和18年)10月8日)は、三島由紀夫の若い頃の友人である。21の作品を書き、戦時中に病没した。

 

 本名は東徤(たかし:行人偏に建)である。

 

 学習院の高等科に在籍していた20歳の時に、中等科に在籍していた15歳の三島由紀夫に小説の感想を手紙で書き送り、それ以来、頻繁に文通を行い、足掛け4年、実質的には約3年間の交友関係を続けた。

 

 18歳の時に肺結核を発病し、療養のため学校は高等科2年時から休学していた。

 

 同人誌『赤繪』を共に創刊し、三島とは互いに励まし合って小説を発表していたが、23歳で夭折した。



年表
大正 9年
(1920)
8月
23日
神奈川県鎌倉市で生まれる。
大正14年
(1925)
- 父の赴任のため、福岡県福岡市に転居。
昭和 2年
(1927)
4月 福岡県男子師範学校附属小学校に入学。
昭和 3年
(1928)
4月 父の辞任により、東京へ転居。中野区の桃園第二小学校に転入。
昭和 8年
(1933)
4月 学習院中等科に入学。
昭和 9年
(1934)
春期
休暇
母と祖父・石光眞清と3人で、関西旅行。眞清が妻を病気で喪い、励ますための旅行だった。
昭和13年
(1938) 
3月 中等科を首席で卒業。天皇陛下から恩賜の時計を賜る。
4月 高等科へ進学。
夏季
休暇
北軽井沢で過ごす。
昭和14年
(1939)
- 正月から体調が悪く、夏季休暇中の7月に肺結核を発病する。三か月間、絶対安静で過ごす。二学期以降、休学する。
昭和15年
(1940)
6月 開発されたばかりで、自然環境が豊かであった大森区田園調布に転居。医師を説得して小説執筆を続ける。両親も写字板を作って協力する。室生犀星に師事し、小説執筆の指導を受ける。
11月
三島の小説についての感想を手紙で書き送り、交友が始まる。
昭和17年
(1942)
7月 文彦の父、東季彦が出資し、東大文学部学生の徳川義恭を加え、三島と文彦の3人で、同人誌『赤絵』を創刊。作品発表の場として生かし、励まし合い、学び合いながら、小説を執筆する。
昭和18年
(1943)
6月 『赤絵』第2号を出版。
10月
8日
急性胃拡張・急性腸閉塞により逝去。
昭和45年
(1970)
10月
25日
三島は出版予定の『東文彦作品集』の序文を書き上げ、講談社の担当編集者に郵送する。
11月
25日
三島は陸上自衛隊市谷駐屯地で自刃する。
昭和46年
(1971)
3月 三島の尽力により、講談社から『東文彦作品集』が出版される。


本名「徤(たかし)」の由来

 東文彦の本名は、「東徤(あずま・たかし)」。

「徤」は〈ぎょうにんべん〉に「建」をつけた字。文彦の祖父、東武(あずま・たけし)がつけた名である。

 

「徤」とは、古い中国思想である「易経」に出てくる文字。

「易経」は、占いの「易」のもとになる思想。

 

「易経」では、天が力に満ちていきいきと活動する状態を理想としていて、その最高に充実した状態を「徤(けん)」と呼ぶ。

文彦の祖父は東洋思想を深く理解している人で、「易経」の理想を表す文字を、孫の名にした。

 

「易経」では、世界の成り立ちを〈陰〉と〈陽〉との循環として理解する。