

東文彦と三島由紀夫のこと
三島由紀夫のペンネームと東文彦
三島由紀夫の本名は「平岡公威」です。
「ひらおか・きみたけ」と読みます。
本名とペンネームがまるで違っています。
なぜ、このようなペンネームが選ばれたのでしょうか。
既に知られていることがあります。
三島が十代の頃に、学習院の国語の教師の清水文雄が紹介し、文芸誌『文芸文化』に小説や随筆を掲載してもらっていました。
『文芸文化』は、国文学研究者や作家達が寄稿している研究誌です。
その『文芸文化』の同人や関係者達が集まり、三島の初めての小説集『花ざかりの森』を出版するにあたり、みんなでペンネームを考えてやったのです。
「ゆきお」には「由紀夫」の字がいいだろう、そして「由紀夫」には「三島」という姓がうまく調和するだろう、という意見が出され、「三島由紀夫」というペンネームが決まったのです。
これは複数の人の証言が残っているので、事実であることは間違いありません。
しかし、そもそもの最初の「ゆきお」という名は、どこからきたのでしょうか?
その点については、これまで判明していませんでした。
新たに調査した結果、次のことがわかりました。
① 文彦の父、東季彦の記録によれば、三島は文彦の小説「幼い詩人」の登場人物「悠紀子」が気に入っていて、そこから自分のペンネームを「ゆきお」(おそらく「悠紀夫」または「悠紀男」または「悠紀雄」等)に自分で決めていたのだが、ある事情により、「由紀夫」に変更するという報告を、文彦宛の手紙で書き送っていた。(東季彦『マンモスの牙』昭和50年3月、図書出版社)
② 三島の恩師、清水文雄の記録によれば、最初、三島自身が「悠紀雄」という案を持ってきたが、「雄」の字は重いので「夫」の方がよいと清水が提案したものである。(清水文雄「わが教え子三島君のために」『潮』昭和46年2月)
これらの証言によると、三島のペンネーム「ゆきお」とは、文彦の小説「幼い詩人」の登場人物からとったものなのです。
小説「幼い詩人」はすごくおもしろい、というような小説ではありませんが、若い三島と文彦とは、さかんにこの小説について意見交換をしています。
「悠紀子」という少女は芸術を愛する魅力的な少女なのですが、芸術にのめりこみすぎて、少し行き過ぎてしまう傾向があります。
そのため、芸術を理解しない人々を強く批判したり、怪しい芸術家気取りの友人と親しくしたりして、困った面があるのです。
三島は、この「悠紀子」という少女が、自分と似ていると感じていたのではないでしょうか。
三島のペンネームと文彦とのつながりに注目すると、三島は一生を通じて、文彦を身近に感じていたのではないかと考えることができます。
文彦は若くして病没してしまいましたが、三島の心の中で、文彦は生き続けていた、と言えるのです。
文彦と三島のつながり
東文彦は、肺結核の療養生活の中で、やっとの思いで短篇小説を執筆していました。
体力にも限界があり、また小説の題材になるような生活経験も乏しいため、地味で目立たない小説が多いのは仕方ありません。
しかし、十代の三島由紀夫が友人として、身近にいました。
三島が文彦と親しく過ごしたのは、約三年という短い時間でした。
三島が成長する上で、文彦はとても大切な存在だったと思われます。
それは、三島の作品の中に表れています。
文彦の作品は、普通ならば、人々の記憶に残らず、消えてしまうはずだったでしょう。
ところが三島は、文彦を自分の作品の中に織り込んでいるのです。
文彦の作品は、三島の作品の中に取り込まれることによって、思いがけない輝きを生んでいます。
この二人の関係の中で、どのような作品を三島が書いたのかを、こちらのコーナーでご紹介していきたいと思います。

